四谷四丁目HP作成委員会
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No.6
2015/7/15
発行責任者
四谷四丁目
文化広報部

 四谷御門は、江戸時代、現在のJR四ッ谷駅麹町口付近に、甲州街道(新宿通り、四谷大通り)へとつながる西の要衝として、1636年(寛永13)毛利元就の玄孫で初代長州藩主の毛利秀就が普請を命じられ、築きました。1872年(明治5)には、撤去され、現在は石組みが遺されております。

〜江戸時代、甲州街道(四谷大通り)は、将軍が有事の際に、甲府城へ向かう為の退路でもありました!!〜
四谷御門には、見附といって、江戸城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見する為に設けられた警備の為の城門があり、枡形を有していました。(図1・2参照)そこには警備の為に見張りの番兵がいました。城内からきた通行人はここで一旦枡形門の中に入り、直角に曲がり、城外へと出て行きました。ここに番兵がいた江戸時代は、暮れ六ツ(午後6時)に門の扉は閉められ、夜間は通行ができませんでした。江戸城の外堀沿いには、こうした三十六見附と称する見附があり、現在では、四谷見附・赤坂見附・日比谷見附・牛込見附などが呼称として残っています。また四谷御門がある甲州街道(新宿通り、四谷大通り)は、参勤交代では高島藩(諏訪)、高遠藩、飯田藩(信濃)の三藩しか通過しませんでしたが、有事の際に甲府城へ向かう為の退路でもありました。


〜江戸時代から明治時代にかけて、四谷見附橋はなく、道路は分断され、通行できませんでした!?〜
四谷見附橋は、甲州街道(新宿通り、四谷大通り)沿いにある橋で、JR 四ッ谷駅と直角に交差して跨ぐ橋です。かつて 紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、ネオ・バロック様式の洋風建物として東宮御所(後の赤坂離 宮、現迎賓館)が、1909 年(明治42)に完成しましたが、その後、美しいフランス様式の四谷見附橋が、1913 年(大正2) に建築されました。しかし老朽化の為、一部が八王子に移築され、1991 年(平成3)に再築されました。
従って、明治時代までは、四谷見附橋は、存在せず、 江戸城内から外に出る人は、わざわざ四谷御門をくぐ って、今の新四谷見附橋を当時は橋が架ってなく、土 塁で築かれた道を通って、城外に出て行きました。城 外から城内に入る人はその逆の方法で、行き来してお りました。甲州街道(新宿通り・四谷大通り)は、まっすぐ 通ってなく、クランク状に曲がって、わざと筋違いに道を造 って、外敵からの侵入を防いでいました。このような直角 に曲げらた道のことを『曲尺手』(かねんて)というそ うで、軍事的な役割を持った道の造りだそうです。赤 坂見附から、四谷、市ヶ谷、飯田橋、水道橋を経て、 お茶の水につながる外堀は、自然の地形ではなく、江 戸城を構築する為に、新たに武蔵野台地を深く掘って 造られました。もともと四谷界隈は、北は紅葉川の谷 筋、南は渋谷川の谷筋となっており、甲州街道(新宿通り、四谷大通り)のあたりは『尾根道の馬の背』とい って、地形的に高台に位置した一本道でありまし た。 そんな地形の所を深く掘って外堀を造りま した。現在のJR四ッ谷駅のホームは、江戸時 代では、外堀の底であったというわけです。そ の掘った土ですが、銀座などの下町の埋め立て に使われましたが、一部は土塁として、外堀の 内側に高く積まれました。四ッ谷駅を中心に、 市ヶ谷方面へ外堀公園、飯田橋駅や赤坂見附方 面へ上智大学のグランド沿いに土塁の名残が あります。そしてそのグランドと真田堀の間に ある通りですが、江戸時代、喰違見附といって、門と石垣を使わず、土塁 を互い違いに築いて敵の直進を阻む、戦国時代以来の古い形態の虎口 (城の出入口)の江戸城外郭門がありました。現在は一部土塁が削り取ら れていますが、その形状は保存されており、当時の様子を留めており ます。現在では、あたりの土手は桜の満開の時期すばらしい景観です。

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[編集・構成:宮内  監修:四谷四丁目文化広報部]  Copyright(C) 2007 Yotsuya-Yonchoume All Rights Reserved.