四谷四丁目HP作成委員会
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No.3
2014/10/17
発行責任者
四谷四丁目
文化部

 四谷四丁目の名所旧跡の一つに『笹寺』があります。正式な寺名は長善寺、山号は四谷山(しこくさん)、宗派は曹洞宗であります。山号の由来は、1736〜41年の元文年間に鋳造された梵鐘に「四谷最初の霊地ゆえ、号四谷山なり」と刻まれていることによります。『笹寺』は、1575年(天正3)に、甲斐国(山梨県)武田信玄の家臣で、「甲陽軍艦」の著者としても知られる高坂弾正昌信の縁者にあたる文叟燐学(ぶんそうりんがく)和尚が開山したと言われ、当時は小笹ばかりが生い茂った草庵でした。その後徳川時代になり、2代将軍秀忠が鷹狩りの途中で休息し、境内に笹が茂っているのを見て、「これからは笹寺と呼ぶように」と命じた為であると伝えられています。四谷の多くの寺院が、江戸城外堀普請の為、1634年(寛永元)以降に麹町から移転してきたものであることを思えば、それらよりもずっと古くこの地に創建されていた『笹寺』の地域社会的意味合いはたいへん大きいと言えます。

〜『笹寺』は、江戸勧進相撲の発祥の地でもあるんです!!〜

笹寺』には、2代将軍秀忠の念持仏(ねんじぶつ)を、夫人の崇源院(すうげんいん)(江(ごう)、3代将軍家光の母)から賜ったものと伝えられている『めのう観音像』があります。赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像で、像高4.9cmの小像ではありますが、容貌は、豊麗で精密な作品であります。黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されています。
新宿区の有形文化財(彫刻)に指定されています。
*念持仏・・・個人が朝夕に帰依礼拝する仏像で、単に持仏あるいは内仏(うちぼとけ)ともいう。
また「四谷勧進角力始祖」(よつやかんじんずもうしそ)と刻まれた3mほどの石碑もあります。これは初代横綱明石志賀之助が、1624年(寛永元)に境内で、江戸で初めて6日間の勧進相撲興行を行ったことを記念して、東京大角力協会(公益財団法人日本相撲協会の前身)が建てたものであります。勧進相撲というのは、神社仏閣の建立や修復を名目に相撲興行 を行い広く浄財を集めることであります。相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸三大娯楽の一つと言われ、『笹寺』は、 「江戸勧進相撲」の発祥の地なのであります。


〜『笹寺』と服部半蔵の間には、こんなエピソードが残されています。〜
服部半蔵(1542年(天文11)−1596年(慶長1)と言えば、二代服部半蔵正成が有名で、徳川家康に仕えた武将です。半蔵の功績で高く評価されている代表的なものに、「家康の伊賀越え」があります。1582年(天正10)の本能寺の変の時、 家康は僅かな家臣たちと堺を遊覧していましたが、明智光秀からの追っ手が差し向けられて、三河岡崎(愛知県岡崎市)に帰還することは不可能に近い窮地にありました。その時、半蔵は帰還路を伊賀の御斉峠(おとぎとうげ)越えすることを進言しました。この伊賀越えは、賞金目当ての地侍や土民(農民)、山賊たちが潜んでいる危険な道中でありましたが、半蔵は伊賀忍者を味方に付けて、3日間の苦難の逃避行の末、家康を無事、本国に帰すことに成功しました。家康は、この半蔵の働きを褒め称え、伊賀の忍者を同心として多く召し抱えました。その後、家康が江戸城に入った時、半蔵は江戸城「西の門」の警備を任せられます。「西の門」は、非常時に将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させる為の門であり、家康が半蔵をいかに重用し、評価していたか想像に難くありません。「西の門」はその後、「半蔵門」と呼ばれるようになりました。そんな信頼の厚かった二代服部半蔵とは違い、三代目の服部半蔵正就(まさなり)(1565年(永禄8)‐1615年( 慶長20)は、配下の伊賀者からの人望がなかったようです。二代半蔵に似ず、凡庸な器で、部下の扱いもまずいので、正就の評判はすこぶる悪かったようです。正就は、徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのように扱いました。その為、伊賀同心は反発し、1605年(慶長10)12月、『笹寺』に200人近い同心が集まり、気勢をあげました。「暴虐非道の人間を組頭にしてはおけない。即刻、その非を認め、我らに謝罪せよ。」「我々は正就から扶持を貰っているのでは ない。単なる上役と下役の関係である。彼の如きは一時も早く、その役を解くべきだ。それができなければ、我らの手で処刑する」などと、刀槍弓鉄砲まで備えての要求を行いました。これを見て、正就は自らの不徳を悟り、自分から解役を願い出ました。処分を思案していた家康は、その願いを受けて、服部家を改易にしました。*改易・・・武士としての籍を除き、領地・屋敷を没収すること。以来、伊賀組同心は、幕府の組織内に組み入れられた存在となりました。一方、正就の代で、三代に渡り徳川幕府に仕えた服部半蔵は断絶しました。しかし服部半蔵が絶えたわけではありませんでした。正就の弟・正重と正就の嫡男・正辰は浪人人の後に正就の義兄であり家康の異父弟にあたる桑名藩主松平定勝に仕えるようになり、正辰が「服部半蔵」の名を受け継いだのでした。こうして武士としての「服部半蔵」は徳川幕府の終わりまで松平家に仕えたと言います。

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参考文献 ・安本直弘著「四谷散歩」・新宿区教育委員会ガイドブック他

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