四谷四丁目HP作成委員会
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 今回は四谷四丁目をすこし離れまして、わが地元の文化財、絵画館へ行ってまいりました。 われわれ、四谷の地元民には馴染みのある建造物ですが、いざ中に入ったことがあるか?というと、ない人がほとんどだと思います。 そこで、HP委員会としては、大政奉還150年の記念特集をしているという事も聞きつけたので、取材をしてまいりました。

四丁目からも徒歩で行ける距離です。 神宮の森を歩いていると、まず見えてきたのはこちらです↓



来る2020年に開催予定の東京オリンピックのメーン会場である、新国立競技場です。 つい最近まで更地だったので、いつ出来ることやらと心配していたのですが、建物が立ち始めると早いものです。 既に3〜4階分の骨組みが出来ていました。 木造と鉄筋の融合建設との事、こちらも地元の名所となることは確実ですね。

ちなみにこの遊歩道はかつての日本を代表するマラソン選手、瀬古さんがよく練習の為に走っていたのも有名な話です。
この日は、アメリカよりトランプ大統領が来日した日で、神宮軟式野球場の前のポールにはおおきな国旗がなびいていました。



しばらく歩いていると、絵画館に向かう広場の手前側にこんなものを見つけました。

  「お鷹の松」

「お鷹の松」といって、昔、徳川三代将軍家光(1603〜1651)が鷹狩りの途中、ここで休憩していたところ、江戸城から飛び去っていた「遊女」と名付けた愛鷹が飛んできて、目の前の松に止まったので、家光はたいへん喜び、この松を「遊女の松」と名付けたそうです。 昭和39年の東京オリンピック開催のために取りさられて違う所へ移設されていたが、昭和54年に戻ってきたとのこと。 いまの松は2代目だそうです。

その松とならんで、「スダジイ」と「台場石」なるものもありました。
「スダジイ」は江戸時代、柳沢吉保の父、安忠の屋敷付近にあったブナ科の常緑広葉樹で、もともとは本塩町にあったようです。都内で現存するスダジイの古木としては貴重なもので、区の天然記念物に指定されています。

「スダジイ」

で、その木の下に有るであろう(目視できませんでした、、) 大きな石を「台場石」というそうです。
江戸時代に英国艦隊から江戸を守るために、今のお台場に砲台を築いたのだそうで、その石垣に使われたのがこの石とのこと。 石材は相模、伊豆、安房方面の各地から調達されたと言うことです。 この「スダジイ」と「台場石」は同じ江戸時代からのものですが、それぞれ別々に場所を転々としながら、いまここに並んで設置されてるのは、偶然とはいえ、感慨深いものがありますね。 新国立の建設に際して、また移動することになるのでしょうか。





さて、いよいよ到着しました。 絵画館です!



昔、この建物の前の池はプールとして開放していた事もあるそうですね。 
それではこの絵画館について説明を。


正式名称:聖徳記念絵画館 (重要文化財)
着工  :大正8年(1919年)
竣工  :大正15年(1926年)
建築設計:公募された156点の中より一等入選作、小林正紹氏の原案を元に明治神宮造営局において修正。
構造仕上:鉄筋コンクリート造2階建 
     外壁、階段は万成産花崗岩、内部広間、壁床は主に国産天然大理石

明治天皇、昭憲皇太后のご事績を永く後世に伝える壁画を展示するために建築されました。

さぁ、いざ入館です。



  

入館料ではなく、施設維持協力金(500円)を納め、いざ入館! と思ったらここで制約が!
館内は撮影は一切禁止とのこと、せっかくの取材なので、少しくらい撮りたかったのですが、ここは決まり事なのでしょうがないです。 ここより挿絵による説明とさせていただきます。

館内に入るとまず目に入るのが、吹き抜けの大広間です。 外観からもわかるようにドーム型の天井が上まで吹き抜けになっており、これは圧倒するものがあります。 そのステンドグラスを配した大広間を中心に左右に廊下が伸びていて、右側は日本画、左側は洋画となっていました。洋画といっても海外の作品というわけではなく、西洋美術の手法で描かれた画ということで、全て日本人による作品でした。



順路に従い、日本画ゾーンから見ていくことにします。 基本的に明治天皇の御事績の絵画が殆どなので、明治天皇が即位してから、崩御までが歴史の史実と共に順番に壁画として飾られています。 総勢80枚です。 一枚の絵は縦3m横2.7mと、かなりの大きさです。 この大きさは初めて見るとびっくりすると思います。 各絵画は見上げる形で観覧するのですが、その前に説明文の書いてあるプレートが立ててあるので、大変わかりやすくなっていました。

順次見ていくとまもなく、今回絵画館で特集とされているあの有名な「大政奉還図」が飾られていました。


「大政奉還図」邨田丹陵 聖徳記念絵画館蔵
※注 引用している絵画ですが、作者死後50年以上たってパブリックドメインとなっております。

誰もが一度は教科書で見たことがあるのではないでしょうか。 ただ、ここに描かれている図は大政奉還の儀式ではなく、政権返上の前日、将軍慶喜が京都、二条城にて40藩50名もの重臣に対して公表、意見交換をした図となっています。 私共も、てっきりこれが大政奉還の儀式だと思っていました。

  ここで、すこし番外ですが、大政奉還とはどのような事だったのかを少し掘り下げてみようと思います。





《大政奉還とは》 

1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍、徳川慶喜が、朝廷に対して、それまで将軍に委任されていた「大政」を返上した政治的事件のこと。 
※「大政」とは、立法、行政、司法の全てを取り仕切る政権のことであり、それを返上するということは、江戸幕府の終焉を意味する。

しかし、この時点で、慶喜は、征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き、諸藩への軍事的指揮権は有していた。 慶喜からしてみれば、朝廷には、政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば、実質的に政権を握り続けられると考えていた。言わば、大政奉還は、幕府側が、倒幕派(薩摩藩、長州藩等)の機先を制し、倒幕の名目を奪う狙いがあったとされる。
尚、江戸幕府の廃止が公式に宣言されるのは、1868年1 月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令においてである。

/// 徳川慶喜が大政奉還に踏み切った狙いとは? ///

大政奉還後の政治体制について、慶喜は、大政奉還上表文の中で次のように述べている。

「従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して・・・」

つまり、議会を開いて政治の方針を決め、天皇がそれを決断する政治体制が大政奉還後であった。そこでは慶喜は少なくとも議会の一員にすぎず、政治のリーダーとしての立場は失われるように見える。 慶喜はたとえ大政奉還をしても、朝廷に政治を行う能力も体制も整っていない為、事実上の政権は依然として慶喜、徳川家が握ることとなると考えていたといわれている。 倒幕派からしてみればこれでやっと大義名分のもとに幕府を討つことができるという矢先に大政奉還が決意表明され、これは朝廷に受諾されたのである。 倒幕の密勅はあくまでも秘密裏に出されたものなので、計画は延期を余儀なくされた。 負けを認めたかに見える慶喜の大政奉還は、むしろ倒幕派を抑える起死回生の一手となったことがわかる。 

しかし、旧幕府軍と倒幕派による鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩側にたなびく者が続出、慶喜は旧幕府軍をも敵にまわしてしまう形となる。 動揺の中で慶喜は戦線を逃げ出し、幕府は滅亡へと向ってしまったのである。


「王政復古」島田墨仙画
聖徳記念絵画館蔵

「伏見鳥羽戦」松林桂月画
聖徳記念絵画館蔵




さて、絵画館へと戻ります。
展示されている絵画はどれも見事な物で、明治天皇の歩んだ軌跡をわかりやすく展示してあります。 こう見ると明治天皇はものすごい時代のなかで即位して、波乱の中を日本と共に歩んでこられたのだと、本当に関心するばかりです。
  
展示コーナーでは、明治天皇が愛した名馬、金華山号の剥製と骨格が並べて展示されていました。 東北に巡幸された時に心ひかれ、明治13年、岩手県水沢で購入されたそうです。 足音だけで主がくるのを察知し、その姿を見付けると近寄りおじぎをしてひざまずいたと伝えられています。 天皇は大変この馬を気に入り、金華山号の姿を彫った文鎮を作らせる程だったそうです。

この画像はイメージです。

タイムトリップしたかのような見学を終えて、我々は、絵画館を後にしました。 ついでといってはなんですが、せっかく史跡巡りをしているので、近くにある明治記念館へも足を伸ばしてみることに。



ここは「枢密院憲法会議」の舞台となった建物を移築使用されいています。 いわずとしれた結婚式場のメジャーフィールドですね。 丁度この日も何組か結婚式が行われていました。 我々はそそくさと脇を抜けて中庭へ、

 

この建物がいわゆる憲法記念館です。 中は披露宴会場として利用されていますが、内装は明治時代を彷彿させる古き伝統ある様式で、とても味わいがあります。


片付けの最中でしたが、ちょっとだけ覗いてきました。

中庭には他にも、あの国歌にも出てくる「さざれ石」や菊の御紋の入った「鬼瓦」など普段見かけないものも展示されていて、とても興味深かったです。


「さざれ石」 岐阜県揖斐郡春日村奉納

学名:石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)
石灰石が長い年月の間に雨水に溶解されその時に生じた粘着力の強い乳状液が次第に大小の石を凝結して巨岩となり河川の浸食作用等により地表に露出したもの。国歌にも歌われているように縁起の良い貴重な石であるといわれている。


本館「鬼瓦」(獅子口)

鬼瓦とは日本建築の屋根の棟の両端に雨仕舞いとして取り付けられる装飾瓦です。
本館の鬼瓦は御所の重要な建物に使われる「御所型」で、上部の菊花紋を配した三個の筒状の部分は経の巻といい五角形の箱型中央の菊花紋上の二本の山型の線模様は綾筋といいます。


明治記念館を後にし、最後に、明治天皇がこの場所で憲法発布観兵式などを親臨されたといわれる「御観兵榎」を通り、帰路につきました。



あたりはもう暗くなって、気がつけば、丸半日、史跡巡りに没頭してしまいました。
こんな近くにも日本の歴史に深く関係する、さまざまな建物や植物、史跡があるものなのですね。
たいへん勉強になった一日となりました。 皆様もぜひ一度足をはこんでみてはいかがでしょうか。



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