今回、私達は福寿会の方々をお呼びして、私達の知らない戦前からの四谷の街の移り変わりをお聞きすることにしました。
時代と共に変化する人々の暮らし、またその時の心情まで掘り下げてお話をお聞きすることが出来ました。 取材は戦前、戦中、戦後、そして明治・大正の話、という流れでお聞きしています。
2015年11月14日 四谷大木戸藪蕎麦にて
主賓:
馬場照子さん
1926年(大正15年)89才
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染谷玲子さん
1928年(昭和03年)86才
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常川キクエさん
1928年(昭和03年)87才
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※年齢は取材当時です。
以下、敬称略とさせていただきます。
ホームページ委員会:小林、根岸、椎名、宮内、竹田
委員 :本日はホームページ委員会の取材を受けていただいて、大変ありがとうございます。 早速ですが、簡単に議題だけは作ってまいりましたので、それに沿いながらざっくばらんにお話出来たらと思っています。 まずは足をくずさせてもらいますね。
主賓 :どうぞ、どうぞ
委員 :それでは取材を始めたいと思います。
戦前の四谷ですが、一番昔の事で覚えてるいのはいつ頃でしょうか。
〜戦前の話 華やかだった四谷界隈〜
馬場 :私の物心がついて覚えているのは満州事変の頃ですね。 四谷の思い出といいますと、ミスコロって言って呼ばれていた松原操さん(別名:ミス・コロンビア 戦前期に活躍した女性流行歌歌手)や、宮田東峰さん(ハーモニカ奏者)がいて、あとは作家の三島由紀夫もいましたよね。 いつも小学校へ行くときは、三島由紀夫は学習院に通ってて、うちの前からバスに乗っていくので、私も同じバスで女学校へ通学していたからよく一緒になりましたよ。 ほんとに美男子できれいでしたよ。 戦前はいろんな人がいましたけど、戦後はいなくなっちゃいましたね。
染谷 :私のうちの裏のほうは永住町といってあまり風紀はよくなかったですよ、もちろん場所にもよりますけれど、安宿が多かったですね。
委員 :それはいまも旅館のあるあたりですか?
染谷 :あそこではなくて、もうすこし横の方だったと思います。
常川 :私が来た時は、やっぱりそうゆう旅館がたくさんありましたね。
委員 :今回はそのころの地図ももってきました。 ご覧になって下さい。
馬場 :昔、四谷幼稚園ってあったんですよ。 そのときに私も入っていたのですが、三栄町まで通ってました。
常川 :わたしの旦那も行っていたと聞きました。
染谷 :四谷幼稚園っていうのは特別な幼稚園でしたよね。 なにが特別かっていうと、その当時は幼稚園に行くような人はあまりいなかったんです。 裕福な人しか行けなかったんですね。
馬場 :うちの姉から行ってるから昭和5年くらいでしょうかね。
馬場 :小林さんがこちらへ越していらっしゃったときによく覚えているのですが、小林さんの奥さんは小粋なお方でしたよ。私が女学校の時に一緒だったんです。
小林 :ありがとうございます。祖母も喜んでいると思います。
委員 :その当時の町の人々の洋服などはどのようなものだったのですか。
染谷 :私達の時代は洋服でしたけど、荒木町界隈の芸者さん達はあたまを結って着物で式典などではハカマで来ている人もいました。
馬場 :履物は着物を着ている人は下駄でしたけど、私達は靴に洋服です。髪型はおかっぱさんですね。
委員 :そのような洋服などは近所で買うことができたのですか。
馬場 :ええ、四谷三丁目の角にしんせい堂っていうお店があって、学校の用意なんか全てそこでした。 たしか今の消防署のあたりですよ。
委員 :その当時の写真があります。
※前列右側から3人目、手拭いを頭に巻いてしゃがんでいるのが根岸弥一氏
染谷 :私の弟が写っていますわ。 根岸弥一。 かわいいのよ!
委員 :笑
委員 :お顔が似ていますね。この写真は何年ごろでしょうか。
染谷 :私が4つか5つだから、昭和10年頃でしょうか。
馬場 :あ、これ、お芋屋さんのみっちゃんもいるわ。
常川 :お芋屋さんはうちの近くとは聞いています。
染谷 :お肉屋のとなりですよ。 おおきな肉屋さんだったんですよ。
馬場 :あと並びには用品屋さんがありましたね。「さきがけや」さんっていってね。
染谷 :そのさきがけやの番頭さんが、子どもたちに皆よくしてくれましたね。
委員 :その当時、この界隈で一番盛り上がっていた地域はどの辺りだったのでしょうか。
馬場 :荒木町ですよね。 水商売がありましたから。
委員 :四谷四丁目の通りはどのようでしたか。
馬場 :この一体はみんな古いお店やさんがずらーっと並んでいましたね。
染谷 :こっち側はわりあいと問屋さんが多かったんです。
常川 :道路も狭かったですよ。
染谷 :なにわやさんとかね。 下町のおもちゃの問屋さんだったんですよ。
馬場 :商店街には、夜店も出ていました。
委員 :小学校は第四小学校ですか?
染谷 :そうですよ。うちの父親もそうです。 第二期生と言っていました。
委員 :第二期生! すごい!
馬場 :第一期生に宝塚の天津乙女がいたのですよ。 皆が憧れてましたね。
委員 :新宿の方面はどうだったのですか。
染谷 :新宿はあまり栄えていませんでしたね。 新宿は最近ですよね。 ここらへんも四丁目よりも三丁目の方面が栄えていました。
常川 :塩町三丁目っていう名前でしたよ。
馬場 :塩町二丁目、三丁目と有名でした。
委員 :交通の便などはいかがでしたか。
染谷 :都電が走っていました、大通りに。 うちの弟はそれに乗って通学していましたから。
常川 :お酉さまなんかすごく盛んだったと聞いています。
染谷 :新宿なんかより盛んでしたよね。
委員 :その頃から戦争へと入っていくのですね、、。
〜戦時中の話 激動の時代を必死に生きた〜
委員 :疎開はされたのですか。
常川 :私達はしていないんですよ。
根岸 :うちの父(弥一)は疎開したと聞いているのですが、戦時中は疎開する人としない人とわかれたのでしょうか
染谷 :疎開したのは学童疎開といって子供だけだったんですね。
染谷 :戦争の時は、地面が火の玉みたいに炎が出て、両側からも火が来て、熱くて歩けませんでしたよ。 水があってもみんな蒸発している。 私は空襲の時は御苑へ逃げました。
常川 ;わたしは牛込でしたけど、やはり同じ状態でした。
染谷 :ここの前なんか焼夷弾でまっ平らですよ。 四ツ谷駅からも新宿駅が見えたくらいです。
常川 :伊勢丹と三越だけが残っていましたね。
染谷 :ここらへん一帯はみんな焼けちゃいましたね。 みんな木造でしたので。
委員 :防空壕とかはあったのですか。
常川 :あったのですが、自分の家の前の街路樹がありますよね、その脇を自分たちで掘って、そこへ入るんです。 当時は真っ暗ですから、夜歩くとそこへ落っこちちゃうんです。だから夜はもう出ませんでした。
染谷 :小学校の先生が、焼夷弾で腕がもぎれても走って逃げていたのを覚えてます。
委員 :避難場所は四谷第四小学校ですか?
馬場 :私達は御苑でした。
常川 :うちのお父さん(夫)は動物が好きで、荷車にニワトリを積んで逃げたって聞きました。
委員 :今の保健所のあたりには牛舎があったと聞いたのですが、
馬場 :それは戦前ですよ。 四谷軒牧場っていうのがあって、四谷牛乳もありました。 それは世田谷の方へ行ったと思います。
委員 :戦争に対してはその当時どのような心情だったのでしょうか。
常川 :それは私達にはわかりませんでしたね。
染谷 :日本は勝つと思っていました。白い敷布を被っていれば、原爆落ちても大丈夫なんて話もありました。
馬場 :あとになってウソだってわかりましたが、警視庁では日本は勝てますとしか言わないし、明日にはいい話がありますよ、なんて言われたこともありました。
出征軍人に向けた武運長久祈願祭
染谷 :でも、戦争の終わり頃には皆疎開してしまっていなかったですね。
委員 :四丁目の商人の方々はどうしていたのですか。
染谷 :商人なんかしていられなかったです。 私達、空襲の時は急いで御苑へ逃げるのですが、その時に戦闘機の機銃掃射があるんです。 それで夜になると焼夷弾。 よく生きていたなと思いますよ。
〜戦後の話 活気が帰ってきたが時代は変わった〜
委員 ;そこから一からの復興となるのですね。
馬場 :やんなけりゃ、しょうがないですからね。
委員 :終戦の玉音放送は聞かれましたか。
馬場 :警視庁で聞きましたよ。 そこへ勤めていましたから。
常川 :わたしは今の自衛隊の場所の当時の参謀本部にいましたので、そこで聞きました。
染谷 :わたしは赤坂の参謀本部でした。
委員 :なんでまた参謀本部におられたのですか。
常川 :就職ですよ。 みな家にいてはいけないのです。 なんでも働かないと。
染谷 :でも、そんな焼け出されたからと言っても、心は明るかったですよね。
常川 :そうね、そんなに悲観していなかったですね。皆同じですから。やらなきゃいけないって感じでした。
委員 :食べ物などはどのように調達したのですか。
染谷 :大変でしたよ。なんにもないですから。闇市だったり、買い出しに仙川の方まで行ったりしました。
常川 :焼け出されても荷物だけは疎開させていたので無事でした。 戦争が終わって戻ってきました。
委員 :戦前の商店は無くなってしまったのですか。
馬場 :数軒を残して無くたってしまったのではないでしょうか。
委員 :昭和23年に中島長吉氏が初代町会長となりましたが、なにか印象に残ってることはありますか。
染谷 :町会は団結していましたよね。
委員 :お祭りとか盆踊りとかはどうでしたか。
染谷 :その当時は戦争続きであまりやった記憶がありません。 自粛してくれといった雰囲気がありました。
馬場 :戦後はお祭りは賑やかにやりましたよ。
染谷 :前川さんがお祭りが好きでしたわね。
常川 ;盆踊りは太宗寺でやっていました。
委員 :終戦当時はアメリカの統治となりましたが、その時の印象はどうですか
常川 :怖かったですよね。 その頃は外人さんなんていなかったんですよ。だから余計に怖かったです。
馬場 :子どもたちは、チョコレート、チョコレートって集まっていましたけどね。
委員 :その頃から急激に日本も発展して、ビルもたくさん建って、変わりましたよね。
常川 :ホント変わりましたよね。 昔はここらへんには大地主がいて、質屋さんなんかもありました。
染谷 :戦争で財閥解体になってしまったから、そこら辺も切り売りしてしまったようです。 うちは釘万さんと親戚ですけど、大地主さんがたくさんいました。
馬場 :商店でいうと、常川さん、ほていやさんと、あと三ますさんも古いですよ。 となりに大劇場があって、いろいろな演劇をやっていました。 そしてその裏が二業地でした。 置屋さんなどがあって花街でしたね。
〜明治、大正時代の四谷四丁目〜
委員 :明治、大正時代の、お父様やお母様から聞いた四谷のお話はありますか。どこから人が来たのかなど。
馬場 :明治維新じゃないのでしょうか。 両替屋さんとか質屋さんとかから始めたのではないでしょうか。
馬場 :うちの”おてつ”おばあさんが気が強くて、侍を投げ倒したって話を聞きました。
委員 :侍さんを! すごいですね。 馬場さんのひいおばあさんとなると江戸時代ですか?
馬場 :そうです。柄の大きな人だったんです。四谷生まれですよ。 武家のお家に奉公に行ったらナギナタを教えられたみたいですね。 それで両替屋を始めたのだそうです。
委員 :関東大震災の話などは聞きましたか。
馬場 :震災当時は産まれていませんが、話は聞きましたよ。 あなた(根岸)のおじいちゃんが、鼻が高くて、外人に間違えられて警官に追っかけられたって聞きました。
委員 :笑!
■総括
委員 :今回お話をお聞きして、四谷は戦前は本当に華やかな街だったのが、戦争によって一変してしまったのですね。
染谷 :そうですね。 戦前は四谷は華やかで、なんでもあって、芸能人も多くいたりして、よい街でしたよ。
常川 :昔は御用聞きといって、買い物もみな配達してくれていたんですよ。
染谷 :でも、いまでも場所がよくて良い街です。 絶対に離れなかったですものね。
全員 :そうですよね。 本当に良い街です。
委員 :今回は貴重なお話の数々をありがとうございます。 また機会がありましたら面白いお話をお聞かせ下さい。
[常川キクエさんがお持ちしてくれた昔の四谷四丁目の風景]
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