−今年で四谷四丁目青年部結成31周年を迎えますが、当時の発足した時の経緯をお聞かせ下さい。
初めは、我々自身が、青年部を作ろうと思って作ったわけではないんです。当時の祭礼では四谷四丁目は、本当に人が少なく、閑散としていました。既に、四谷大木戸会(注 1)がありましたが、大木戸会は、そもそも祭礼の時に、いざこざを起こしてはいけないということでできた団体で、祭礼を仕切っていました。皆さん、よく多満川さんに集まっていましたよ。メンバーには、有賀章一氏、常川啓太郎氏、川村糸次氏、加藤晴司氏らがいて、若い頃は、四谷担ぎ、八方担ぎなど率先してやっていたと聞きました。常川啓太郎氏が若い頃、祭礼時に、四丁目にやくざ者が何人かで来て、神輿を勝手に持っていこうとしたので、常川さんが殴られながらも必死で止めたというエうエピソードがあります。昔の写 真で三輪トラックの荷台に乗って映ってるのがありますが、皆さん、和 気あいあいで祭礼を守っていたんですね。その方達も青年から壮年の年代になるにつれ、その次の世代が育っていなかったという状況でもありました。祭礼も盛り上がらず他町会の後塵を拝しており、そのような中で青年部発足の気運は高まっていったというわけです。ある時、町会役員の有賀章一氏から、若い子達を集めて、青年部を作ったらどうかという話をいただきました。常川啓太郎氏からもうちの息子もやる気があるからと言ってくれて。私は、常川直喜氏と(スナックの)ピンポンパンでオールドパーを飲みながら、青年の集まり、それが部になるのか会になるのか、わからないけど、そういうのも必要だよね、一つ作ろうじゃないかって、話しをしました。そこで祭礼に顔を出していた林啓司氏、井上文夫氏、加藤祐司氏等、若者にも声をかけて青年会みたいなものを作って、祭礼を盛り上げようじゃないかということになりました。なので一番最初のメンバーと言えば、この5人から始まりました。更に有賀弘氏、杉山国義氏が加わり、四丁目に生まれ育った子の集まりということで、青年の集いみたいなものを作ろうということになりました。その際、名称を何にしようかから始まって、会にするのか、部にするのか、祭礼を盛り上げる為には、もっと人数が必要だとか、最初はそんな話しをしてましたよ。 そこで当時の町会長であった小林十七八氏 に、相談に行った所、(町会下部組織の)青年部として扱ってもらうことになりました。部会は月1回、定期的に行っていました。女性もいました。私より1年下ぐらいかな。私が四谷惣町睦会(注 2)に入っていた頃、ある祭礼で外国人が、私に話しかけてきたのですが、何を言っているのか、わからず困っていたら、横から流暢な英語で、外国人と話してくれました。そんなことから青年部にも顔を出すようになり、よく盆踊りとか手伝ってもらいました。既に他町会(荒木町、愛住町、四谷一丁目、二丁目、三丁目等)には青年部組織がありまして、三丁目の方をお呼びして、四丁目青年部発足のご挨拶をしました。四谷三丁目青年部の国井氏や松本氏をはじめ役員の方には、たいへんお世話になりました。私が31歳か32歳ぐらいの時ですかね。まずは人数集めに奔走しました。何しろ人数が必要ということで、小平司朗氏、お茶屋の永田氏、新聞販売店の佐藤氏などに声をかけ、入部してもらいました。盆踊りにも携わっていましたよ。当時は、大木戸ひろばでやっていましたけど、単に音楽を流して、踊るだけで、三軒ほどテキヤがいて、露店は出していましたが、(全体的に)華がなかったので、我々も焼きそば、やきとりを売って、子供には、おもちゃを配布するなど、盛り上げに一役買っていました。その頃から、どうにか部として認められてきたような気がします。部長は3〜4年くらいやりましたかね。その後、常川直喜氏、井上文夫氏が部長をやり四代目の林啓司氏の時は、前川智英氏が加わり人数も一番多かった時期ですね。主に祭礼、盆踊り、消防ポンプ大会等に参加しました。青年部発足当初の祭礼では、まだ四谷担ぎは主流ではありませんでした。担ぎ手が他方から来ており、担ぎ方の統制ができていなかったこともありますね。これは他町会も同様でした。なので四谷青年連合会とも連携して、四谷担ぎと江戸前担ぎを半々ぐらいの割合でやり、ここだけは江戸前、あとは四谷担ぎで、みたいにして、どんどん修正していきました。ただ当時の四谷青年連合会は加盟していたのが、6〜7カ町ぐらいで活動状況もそんなに活発ではなかったですね。常川直喜氏が青年部長をやっていた頃ですかね、四谷青年連合会を復活させる為に、左門町の勝川長成氏が会長になって、私が総務を担当しました。他に四谷三丁目の国井氏、愛住町の渡辺氏、四谷一丁目の平山氏、坂町の時田氏、若葉二丁目の羽生氏らがいらして、14 カ町が加盟しました。総会と新年会を定例会にして、他町会との交流を図っていました。この頃は仕事が終わったら、毎日のように皆で集まってましたよ。そうするとだんだん地元の知り合いが多くなって、そこにはボーイスカウト時代の先輩後輩や、四谷二中時代の友人がいたりして、横のつながりも増えていきました。ただ当時は、荒木町が一番盛り上がっていましたし、人数では愛住町も負けていなかったですね。それに比べて四丁目青年部は、劣勢でした。だから青年部発足後、ある祭礼の時に、発足祝いにと、四谷三丁目、荒木町、愛住町がミニ連合渡御をしてくれました。当時は、連合渡御がなくて、土曜日に本社神輿が出て、日曜日は各町で渡御してた頃でしたので、本当にうれしかったですよ。それからです、土曜日は各町での町神輿渡御、日曜日は、隔年で本社神輿渡御、連合神輿渡御になったのは。やっぱり日曜日に本社神輿や勢揃いをした各町神輿を出した方がいいということになっ て、四谷青年連合会から須賀神社の尾形成典宮司(現大宮司)に申請書を提出して、了承していただきました。
−氏子青年部発足にも、奔走されたと聞きました
青年部を発足した当時、須賀神社に四谷惣町睦会というのがありました。祭礼など行う際、事故なく安全に行われるよう、自ら動いて守るという役目でした。いわゆる祭礼の運行管理と警備ですね。会員は烏(からす)の浴衣を着てました。今でいう氏子青年部の役割ですね。大総代、役員総代、総代、惣町睦会の序列でしたね。私が惣町睦会に入った頃は、会長は若葉町一丁目の堤栄蔵氏、会計に小沢弘太郎氏がいました。どなたからか聞いた昔の話ですが、戦後間もない、まだ社会情勢が不安定な頃、祭礼の時期になると、方々から面白がって、棍棒持って、いろんな輩がやって来たそうです。多分喧嘩目当てなんでしょうね。またこんな話しも聞きました。若葉一丁目の半纏がなぜ赤色かというと、本社神輿を宮出しする時、一番最初に担ぐのだけれど、いろんな連中が突っ込んできて、喧嘩になって半纏がよく血だらけになったというんで、それをもとに赤色の半纏にしたっていうんです。四谷惣町睦会が、(1995 年(平 成7年)に)解散したのをきっかけに、当時、尾形 靖典氏(現宮司)が、今後、祭礼をはじめ数々の年中行事を行うにあたり、積極的にご協力いただく方が必要なのでという事から、各町会からメンバーを募り、氏子青年部を作りました。四丁目からは、私と常川直喜氏、林啓司氏の3名が入部しました。初代部長は、片町の安井氏でした。大晦日の除夜祭に甘酒を振舞うのはずっと続けてます。5 年前からは、元旦祭にも甘酒を出すようになりました。毎年の事ですが、今年も尾形靖典宮司と氏子青年部員で8月15日に靖国神社参拝に行って参りました。
−四丁目青年部の今と今後について、どのようにお考えですか
今の青年部は、活気があってすごくいいと思います。他町会も頑張ってますが、評価高いです。金子謙一部長はよくやってます。率先垂範して頑張っていると思いますし、部員をよくまとめていますよ。部長職というものは、全ての事に対して、責任を負わなければならないので、たいへんです。また今の青年部の人達を見ていると、ある程度レベルが高く、目的意識を持ってやっているなと思います。我々の頃は、青年部は発足したものの、組織力もなかったし、部員に会費を徴収して手弁当でやってました。その後どういうふうになっていくかなんて、想像もできなかったというのが本音でした。もしかしたら、青年部に入って、1〜2 年だけわいわい楽しくやれればいいやと思っている人も、中にはいるかもしれないけど、せっかく四谷の地に生まれ育って住んで、また はこの地で働いているのであれば、青年部員として、責任をもって、次世代に繋げていって欲しいと思います。昔も今もそうですが、祭礼で神輿を上げるのに、他方からの担ぎ手に頼らざるを得ない状況で すが、もっと地元の若い子に来てもらうような取組みも必要だと思います。やっぱり子供神輿も山車も子供が来ると親 御さんも集まりますので、活気が出てきますよ。若葉一丁目は、人集めに祭礼の期間にバーベキュー大会をやっています。一つのアイデアですね。四丁目は広い町なので、同世代の人達が、必ずいるし、集まることもあるだろうから、そういった繋がりを是非大事にして欲しいと思います。今、私は青年部から一歩引いた形でいますので、口出しはしません。どちらかというと周囲から見守り、応援をしているといった感じです。これからも青年部の皆さんには是非頑張って欲しいと思います。
日 時: 2015年(平成27年)9月30日(水)
19時00分〜21時00分
場 所: イタリアンダイニングばさら
出席者: 高橋健太郎氏
四谷四丁目町会 ホームページ委員会
小林・根岸・椎名・宮内・竹田
|
補足説明
注1 四谷大木戸会(よつやおおきどかい)
1970年(昭和45年)6月11日に、次の世代へのリリーフ、若い者同士の触れ合い、親睦、互助の精神、相互の幸せを目的に四丁目町会の下部組織として、有賀章一氏、加藤晴司氏、林清治氏、常川啓太郎氏、前川権氏、橋本康氏、鈴木福太郎氏らをメンバーに発足した。主に祭礼、盆踊り、夜警等の町会行事に従事してきた。〜1998年(平成10年) 四谷四丁目町会 写真で綴る50年誌より〜
注2 四谷惣町睦会(よつやそうちょうむつみかい)
1889年(明治22年)、四谷大通り各町に、店番火消しと称する自衛消防組が組織され、同時に各町の連絡協調を図る為、『四谷惣町睦』が生まれた。火災発生の時は、印半纏を着て出動するほか、天王祭りの際は、若衆総代取締りとして、神輿の警護にあたった。1905年(明治38年)頃の大祭で、神輿巡幸中の喧嘩騒ぎになり怪我人が出たこともあり、巡幸自体が禁止され、店番火消しともに四谷惣町睦も解散した。その後、天皇御即位の大典奉祝の為、1916年(大正5年)より、神輿巡幸が許可されたのを機に、旧名に因む『四谷惣町睦会』が結成され、神輿警護の責任を負うことになった。『旧四谷惣町睦』と『新四谷惣町睦会』とは、組織も性格も異なり、会員は旧四谷区内の諸職の親方連のみとし、初代会長は、東京府会議員で骨董商の平山堂伊藤平蔵氏が就任した。当初は、神社奉仕の他、防火・防災、社会奉仕活動も行っていたが、社会生活の変貌、戦時体制の強化等で、活動範囲が縮小され、専ら神社奉仕のみに努めた。戦後の1946年(昭和21年)以降も活動は続けてきたが1975 年(昭和50年)に堤栄蔵氏が筆頭となった後、1995年(平成7年)に会を解散し、神社の外郭団体としての活動を中止した。 〜2004年(平成16年)須賀神社御遷座370年記念誌 鎮守の杜より〜
|