四谷四丁目HP作成委員会
Copyright(C) 2007 Yotsuya-Yonchoume All Rights Reserved.
   トップ > 特集




 このたびホームページ委員会では、四谷大木戸の老舗料亭「多満川」さんのご主人、柳谷治さんを囲んで、昔の話、四谷の話、ご自身の話など、たいへん興味深い、貴重なお話しを伺いましたので、一部ではございますが、その内容を掲載させていただきます。

〜四谷に歴史あり!!〜
 四谷の起源は江戸時代より古いんじゃないでしょうか。お祭りでも四谷だけ担ぎ方が違いますよね。江戸時代以降、28〜29番地のあたりは、既に理性寺がありましたが、あとは一帯お墓だったようですね。なので、ビルを建てる時に元禄時代のご遺体が発掘されました。当然土葬なのですが、温度がちょうどいいのか、地下水源があって低温だったのか、保存状態がよく、いわゆる死蝋(しろう)(人為的加工ないし自然条件によって乾燥され、長期間原型を留めている状態のミイラ(木乃伊)に対して、死体が何らかの理由で腐敗菌が繁殖しない条件下にあって、外気と長期間遮断された果てに腐敗を免れ、その内部の脂肪が変性して死体全体が蝋状もしくはチーズ状になった状態をいう)の状態だったようです。発掘後は、東長寺で供養しました。お寺はもともと富くじ(今の宝くじ)や博打のイベント会場にもなっており、そこから派生して遊興地帯として栄え、明治時代から戦後にかけ、料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業する 三業地(注1として発展してきたと思われます。ちょうど四丁目町会会館の向かい側あたりに検番(芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理所)があったようですね。野村コンピューター(現、IDCFrontier)があった所には、大正時代に大国座(注2という芝居小屋ができ、その後、映画館になったんですよね。私が覚えているのは、既にでっかい駐車場になってましたけど。うちが今の場所に移ったのは、戦後ですね。


〜226事件の裏ばなし〜
実はこんな話があります。1936年、昭和11年2月26日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らがクーデター未遂事件を起こすのですが、俗に言う226事件(注3です。当時の首相は岡田啓介でしたが、将校らは、首相官邸に赴き、岡田首相を襲撃しました。しかし将校らは間違って、妹婿の松尾伝蔵を銃殺し、岡田首相を殺害したものと勘違いしたまま、官邸を占拠、当の岡田首相は、女中部屋に隠れていました。官邸にいた人たちは、何とか、岡田首相を脱出させなければいけないと一計を案じます。方々から亡くなった岡田首相(実は松尾伝蔵)を一目見たいと人々が官邸に押しかけてくるのですが、遺体を見て、年寄りが卒倒してしまい、とりあえず、外に運び出さなければいけないと言って、運ぶのですが、実はそれが岡田首相なんです。つまり岡田首相を卒倒した年寄りに化けさせて、官邸から無事脱出させるわけです。そしてリアリティさを出す為に葬式を出すんですが、取り仕切ったのが、28番地の結城屋さんでした。もちろんその時、結城屋さんは岡田首相の葬式と思ってましたが、それが縁で、後年本当に岡田首相が亡くなった時も結城屋さんが葬式を行ったそうです。これは私が以前、岡田首相の息子(岡田貞寛(岡田啓介次男)さんが書いた「父 岡田啓介」の本を読んだ時に、岡田啓介が、当時、自宅のあったが角筈(つのはず)(現在の、新宿区西新宿、歌舞伎町および新宿の一部)から築地の海軍経理学校に都電で行き来していた頃、四谷大木戸の通り沿いに葬儀屋さんがあったことを思い出すくだりがあって、後日結城屋さんに確認したら、そうですよって言ってました。


〜自衛隊観閲式は感動しました!〜
昔は外苑西通りを戦車が通ってましたよ。(1955年(昭和30年)の防衛庁(現防衛省)の創立一周年記念式典行事として)市ヶ谷にある陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地から外苑西通りを通って神宮外苑絵画館前まで走行し、自衛隊観閲式を開催しておりました。1972年(昭和47年)まで続けられていました。当時の外苑西通りは、敷石でしたので、戦車が通ると、その重みで沈んでしまうんですね。その理由から、当時の美濃部亮吉東京都知事が外苑西通りの戦車走行をやめちゃったんです。私は戦車が大好きで神宮外苑に見に行って、実際戦車の操縦席に座って機関銃の操作をしましたよ。あとですごく怒られましたが楽しかった。1964年(昭和39年)に正式採用になった64式小銃や63式中戦車なんかもありましたね。私は何しろメカが好きで、銃のメカ、大砲のメカ、戦車のメカがすごく好きなんですよ。以前、お店に陸上自衛隊の幕僚長が来て、まだ防衛庁の頃、市ヶ谷駐屯地に阿南惟幾陸軍大将の幽霊が出るって話をしてましたよ。阿南陸相は、終戦日の1945年(昭和20年)8月15日に「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と遺書を残して切腹(自刃)した人物なんですが、よく一人で仕事をしていると出るって話を聞きました。



フランシス・フォード・コッポラ氏(注4との出会い〜
コッポラ氏が1978年(昭和53年)に来日した際、普通はホテルに滞在するんでしょうが、日本に来たからには、日本家屋で、座敷のある部屋に泊まりたいという希望で、うちのお店に来られたのが初めてでした。最初、本人が来た時は、ずっとお店の中を無言で見ていて、気に入ったのか、気に入らないのかわからなないし、私の母も変な外人と思ったらしいのですが、最後にここがいいと言われたのがきっかけで滞在されました。部屋は当時あった庭に面したところを、寝室として使用してました。もともとうちのお店は映画関係者がよく来ていて、監督や脚本家が部屋にこもって、台本を缶詰状態で書いてましたよ。コッポラ氏の来日の目的は、翌年1979年(昭和54年)の『地獄の黙示録』(注5の全米公開を前に、作曲家の冨田勲氏に音楽担当の依頼に来たようです。撮影したフィルムの一部を持参して、それを見ながら、冨田勲氏に音楽をつけてもらうと思っていたらしいのですが実現はしなかったですね。実はそのフィルムと、「地獄の黙示録」を書いたタイプライターをコッポラ氏が、うちに忘れていって、ずっと保管してあったのですが、去年、コッポラ氏が世界文化賞を受賞され、数十年ぶり来日された際、母がお返しに上がりました。そうしたら、タイプライターにサインしていただき、母にくださいました。コッポラ氏が日本人の映画関係者を呼んで、パーティーをやりたいということで、うちのお店でコッポラ氏自ら、厨房に入って料理をしてました。私も手伝って2人で、イタリア料理か何かを作りました。翻訳家の戸田奈津子さんも来てましたよ。


左の写真は、2013年11月(平成25年)2013世界文化賞・第25回高松宮殿下記念世界文化賞の受賞者であるフランシス・フォード・コッポラ氏の受賞者個別懇談会。映画「地獄の黙示録」収録後の1977、8年頃、東京に一時滞在した際、利用した当時、東京・四谷にあった料亭に置いていった、コッポラ氏が脚本を書く際などに使用したタイプライターを女将の柳谷みや子さんが持参。 コッポラ氏はそれにサインし、女将にプレゼントした。中央は、翻訳家の戸田奈津子 =11月15日午後、東京都港区(大西史朗撮影)



以下その時の記事
2013年(平成25年)11月15日、東京・虎ノ門のホテルオークラ東京に集まった世界文化賞の第25回受賞者4人は記者会見後、報道陣との個別懇談会に臨み、芸術への尽きない情熱などについて語った。演劇・映像部門のフランシス・フォード・コッポラ監督(74)は、ベトナム戦争を扱った「地獄の黙示録」(1979年)(昭和54年)をフィリピンで撮影した際、度々日本を訪れている。「狂気に満ちた作品を撮っていたので、東京の落ち着いた雰囲気にどれほど助けられたことか」と振り返った。この作品の日本語字幕を担当した戸田奈津子さん、定宿だった「四谷大木戸 多満川(たまがわ)」(東京・四谷)の女将(おかみ)、柳谷みや子さんも祝福に駆けつけた。柳谷さんは監督が忘れていったタイプライターを手渡すと、監督はボディーにサインして柳谷さんにプレゼントした。


70年代安保(注6は痛かった!?〜
新宿通りは、デモ隊がいて、敷石の石を投げるんですね。危なくて、私は頭にくらいましたよ。それからですかね。新宿通りの店にはシャッターが設置されたり、道路が敷石からアスファルトに変わったのは。国鉄のストもすごかったね。何しろ労組が強かったからね。教師が学校来れなくて、四谷二中なんか先生がいなくて、生徒だけっていう状態でしたよ。四谷第四小学校の時に、校長室であさま山荘事件を見てました。校長先生に君たちどう思うと聞かれたけど、わかるわけないですよね。



市川崑監督(注7とはご縁がありまして・・・〜
角川春樹氏もお店に来ましたよ。ちょうど角川映画第一作目の「犬神家の一族」(注8が封切られる前あたりかな。脚本は市川崑監督が担当しましたが、ずっとうちのお店で書いてましたよ。市川崑監督も四谷四丁目の人なんですよ。実は監督は、私の義理の父親なんです。監督のことは先生と呼んでました。「犬神家の一族」以来、脚本はうちで書いてましたし、座敷を使って撮影したこともありましたね。それが縁で私、監督の短編映画の脚本を担当させていただきました。れっきとした日本脚本家協会の一員でもあるんですよ。 2007年(平成19年)公開の『ユメ十夜』(注9という作品なのですが、これは夏目漱石の小説「夢十夜」を原作とする、11人の監督(うち一組は共同監督)によるオムニバス作品なんです。私は、その中の第二夜の脚本を担当したのですが、監督が亡くなる最期の作品でもあるんです。ある日監督が、私に「治君さあ、こんな話しきてんやけど、どう思う?」って言われて、私が「いいじゃないですか」って言ったら、監督が「じゃ書いてみる?」って。私は「はいいいですよ」って。それで脚本書くのが決まりました。とはいえ夏目漱石といっても書くことがないので白黒のサイレントでいきましょうとアイデアを出しました。最初2人話ししていて、変なことやったら、漱石に怒られちゃうよね。じゃ普通に撮るか。でも普通に撮ったら、つまんないよね。なんて話していくうちに、じゃサイレントにして白黒で撮りましょう。それいいね。なんていいながら詰めていきました。でもあとになって聞いたら、サイレントの場合、字幕をに、サイレント用の字体にするだけで何百万もかかってしまって。あの字体を書ける人が日本に一人しかいなかったらしいんですよ。製作費は、1,000万ぐらいで、全部撮影に使うので、ギャラは5万でした。あと1987年(昭和62年)公開の東宝の沢口靖子主演の『竹取物語』、WOWOWで2003年(平成15年)に放映された鈴木京香主演『娘の結婚』には俳優としても出演しましたよ。





★柳谷さん脚本の『ユメ十夜』の第二夜はこんな話しです。
男(うじきつよし)がうす暗い部屋に入って座ると、いつの間にか和尚(中村梅之助)がいる。そして男は、自分が侍だったことに気付く。「侍なら悟れぬはずはない」という和尚に挑発され、懸命に悟りを得ようとする侍。しかし一向に悟りはやってこない。それでも侍は、時計が次の刻を打つ前に悟りを得て、和尚の首をとろう、それができなければ死のう、と決意する。そんな侍を嘲笑うかのような和尚に、侍はしだいに殺気を募らせていく,,,           続きは、DVDでお楽しみ下さい。


///柳谷さん、面白いお話の数々、ありがとうございました♪ by HP委員会一同///




四谷大木戸 「多満川 」
東京都新宿区四谷四丁目レジデンスホテルウィル新宿1F
03-3353-0887



 平成26年3月3日(月)20時00分〜22時30分  於:『大木戸多満川』    
 出席者:柳谷 治さん、小林、椎名・根岸・竹田・宮内





補足説明

注1:三業地 料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業している地域の俗称。その営業には公安委員会(第2次大戦までは警察署)の許可が必要であることと,3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していることにより,三業地とよんで特殊地帯であることを表した。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理のため,検番を置くことが多い。三業から待合の抜けた所では二業組合となり,そこを二業地という。花柳街とほぼ同義に用い,20世紀前半における市街地の主要な遊興地帯であった。)


注2:大国座  新宿通りを挟んで四谷地域センターの真ん前に理性寺があった。寺は大正時代の初めに杉並区に移転し、1917年(大正6年1月)その跡地に定員1200名、3階建ての大国座という芝居小屋ができた。寺に 大黒堂があった為それをもじったものだった。ここには沢村伝次郎、中村翫右衛門などが出演し、山の手の歌舞伎座として有名であった。しかし、1918年(大正7年)と1923年(大正12)年の2度にわたる火災などによって観客が離れ、1929年(昭和4年)には松竹に身売りした。新宿松竹座となったこの劇場は、パラマウントの封切映画館となり、同時に東京松竹少女歌劇の初公演も行われた。水の江滝子や川路竜子はここで初舞台を踏んだのである。レビュー劇場としてエノケンなども出演した。新宿歌舞伎座、新宿大劇場などと名前を変えて存続したが、1945年(昭和20年5月)の戦災で惜しくも焼失、その後は遂に再建されることはなかった。)



注3:226事件  1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えの下、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起、将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠した。その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。)


注4:フランシス・フォード・コッポラ  (Francis Ford Coppola, 1939年4月7日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督・映画プロデューサー・脚本家・実業家。数々の映画賞を受賞している。父は元NBC交響楽団のフルート奏者で作曲家のカーマイン・コッポラ、妹は女優のタリア・シャイア、娘は映画監督のソフィア・コッポラ、息子は映画監督のロマン・コッポラ。甥は俳優のニコラス・ケイジ(フランシスの兄オーガストの子)、ジェイソン・シュワルツマン(タリア・シャイアの子)。


注5:『地獄の黙示録』  (じごくのもくしろく、原題: Apocalypse Now)は、1979年製作のアメリカ映画。フランシス・フォード・コッポラによる戦争映画。ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を原作に、物語の舞台をベトナム戦争に移して翻案した叙事詩的映画(エピックフィルム)。1979年度のアカデミー賞で作品賞を含む8部門でノミネートされ、そのうち撮影賞と音響賞を受賞した。それ以外にもゴールデングローブ賞の監督賞と助演男優賞、全米映画批評家協会賞の助演男優賞、英国アカデミー賞の監督賞と助演男優賞などを受賞。日本では1980年2月23日に公開された。2001年にコッポラ自身の再編集による『特別完全版』(英語版)が公開された。


注6:安保闘争(70年安保)  「新日米安全保障条約」は、その期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めていた。締結後10年が経過した1970年に、これを阻止して条約破棄を通告させようとした安保闘争(70年安保)が起こった。全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開されました。しかし、60年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。


注7:市川 崑(いちかわ こん)  幼名:市川 儀一、1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)は日本のアニメーター、映画監督。娯楽映画から実験的映画、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、昭和の日本映画黄金期から21世紀初頭まで、第一線で映画制作に取り組んだ。代表作に『ビルマの竪琴』『おとうと』『野火』『東京オリンピック』『犬神家の一族』『細雪』など。


注8:『犬神家の一族』  (いぬがみけのいちぞく) 1976年(昭和51年)10月16日に公開された日本映画。横溝正史作による同名の長編推理小説の映画化作品の一作。製作は角川春樹事務所、配給は東宝。監督は市川崑、主演は石坂浩二であるが、2006年にはこのコンビによるリメイク映画が制作された。

注9:『ユメ十夜』   2007年(平成19年)1月27日(土)公開 明治の文豪、夏目漱石が1908年(明治41年)に発表した短編小説「夢十夜」を日本映画界を代表する10人の映画監督が映像化したオムニバス作品。第ニ夜は、悟りを得ようとする侍の懊悩を描く。監督は「犬神家の一族」の市川崑。出演は「かあちゃん」のうじきつよし、「すずらん 少女萌の物語」の中村梅之助。他に『姑獲鳥の夏』などの大御所実相時昭雄監督や、ハリウッドでも活躍する『呪怨』の清水崇監督らがそれぞれの思いを込めて文豪の夢の世界に挑む。


[編集・構成:宮内HP委員  監修:HP委員会]  Copyright(C) 2007 Yotsuya-Yonchoume All Rights Reserved.