四谷四丁目HP作成委員会
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 このたびホームページ委員会では、坂部四谷四丁目町会長をお招きし、四谷の歴史についてお話しを伺いました。 たいへん興味深い、貴重なお話しが多々ありましたので、一部ではございますが、その内容を掲載させていただきます。

〜江戸時代、四谷には優秀なお侍が大勢住んでいました〜
 江戸時代、この四谷四丁目一帯は、8代将軍徳川吉宗の次男宗武を家祖とする田安家(注1の下屋敷がありました。現在の四谷四丁目西交差点から富久町交差点に向かう外苑西通りは、敷地内でしたので、当時はこの通りは無かったんですね。田安家の西側には、理性寺(りしょうじ)という寺がありましたが、そこに大木戸(注2があったんです。新宿通りがこれだけ栄えた始まりは、江戸時代5代将軍、徳川綱吉の時代くらいからで、高松喜六(注3という浅草で遊郭を営んでいた名主が幕府に上納金5,600両を納めることを条件に町屋をつくりました。当時、甲州街道は日本橋を出発して、一つ目の宿場が高井戸でした。 東海道は品川宿、中仙道は板橋宿、日光街道は千住宿とそれぞれありましたが、そんなに遠くなかったですが、高井戸まではちょっと遠かったんです。また新宿には追分と言って、甲州街道と青梅街道の分岐点があったので、そこに町屋をつくろう言うことになりました。田安家は、幕府直轄領から10万石を所領していましたが、いわゆる城持ち大名ではなかったんです。要するに8代将軍、徳川吉宗が、自分のあとは、(長男)の家重になるが、言語がうまくしゃべることができなかったこともあり、御三家に対抗して、次男三男孫で御三卿(注4をつくりました。田安家、一橋家、清水家、田安家と清水家は、今の北の丸公園、武道館のある所に住まわせました。一橋家は平河門の出た所、今の共立女子大学の一帯に住まわせました。吉宗は自分が死んだ後、家重をみんなで協力して、盛り立てるようにと御三卿をつくったんですね。時の朝廷から、それぞれ公家の役職の○○卿をいただいたんですね。ただ城持ち大名ではないので、家来が直接いないので、旗本には八万騎と言って将軍直轄の家来がいたので、その者を家来にしていたわけですね。田安家の近く、大番町、今の大京町には、たくさんの家来が住んでいました。会社で言えば、親会社と子会社のようなものですね。親会社から子会社へ、幕府から田安家に家来が出向してくる形ですね。ですから田安家の侍は優秀だったんです。 150〜200俵取りぐらいの中堅、今で言う官吏、お役人さんが尽くしていたんですね。当時、大番町に大岡雲峰(注5という旗本が住んでいましたが、その人が描いたのが、今須賀神社に社宝として残っている三十六歌仙絵(注5です。大番町とその隣の右京町が合わさって大京町になったんですね。大京町の町会事務所に大京神社がありますよね、字をよく見ると「右」という字を消して、「大」にしてあります。昔は右京神社と言い、その前は秋葉神社と言ってました。田安家には、学者が集まってきました。大岡雲峰や林国雄(注6等で、林国雄は四谷文学を創った人です。この方は、学者で、本居宣長のお弟子さんで、国学を学んだ方です。林国雄は、田安家に、講義に来ていて、同時に一般にも国学を教えようと笹寺(注7を借りて、そこで四谷文学という国学を教えたんですね。現在、笹寺の金堂の真裏に墓があります。その末裔の林武さんは洋画家です。また大番組の人で、永嶋長兵衛という人がいて、この人が薩摩に行って、孟宗竹の苗木を持ち帰り、田安家の邸内に植えたのが江戸孟宗竹(注8の始まりと言われています。その頃のものは、現存しませんが、孟宗竹自体は四谷中学校にあります。当時、できた竹の子を次男の田安宗武がお父さんの8代将軍吉宗に献上をした。将軍が食べる初物は、竹の子は京都嵯峨野から、竹の子飛脚といって、どんなに早くても3日間はかかっていました。3日立ってきた竹の子と、こちらでできた竹の子を食べ比べれば、そりゃ、将軍も竹の子は四谷に限るになっちゃったってわけです。そういうわけで、武家屋敷にも孟宗竹を植えたりして一時はあちこちで竹の子が盛んになって、江戸っ子、四谷の人たちは、竹の子を食しました。四谷は、竹の子(江戸孟宗竹(エドモウソウチク)発祥の地でもあるわけです。

〜新宿区に旧鎌倉街道が残っているんです〜
 千駄ヶ谷に行く道は旧鎌倉街道(注9の延長線なんですね。新宿区で旧鎌倉街道の旧道が残っているんですが、靖国通り沿いに「玄海」という水炊き屋があって、向かいに東京電力があり、ずっと北へ向かうと、新宿中学校があって、左に天神小学校がありますが、そこの狭い道が旧鎌倉街道なんですね。しばらく進むと右側に西向(にしむき)天神社(注10がありますね。そのまままっすぐ進むと大きい通り (職安通り)に出ますね。江戸時代は、更にまっすぐ進む道があり、神田川沿いの面影橋まで行って、渡って雑司が谷の方まで道がつながっていて鎌倉から続いていたんですね。新宿区で旧鎌倉街道の道と言ったら、そこしかないんですね。治承三年(1179年)に源頼朝が旗揚げをし、治承四年(1180年)10月21日に静岡県黄瀬川で源頼朝と弁慶主従を連れて奥州から駆けつけた源義経が兄弟の対面をしますが、皆さん、今後新宿の旧鎌倉街道を通った時は、かつて源義経が通ったことに思いを馳せてみて下さい。源義経は、鎌倉に馳せ参じる時に西向(にしむき)天神社で祈願をしてますね。西向天神社の隣に、天台寺門大聖院があり、そこに山吹の里伝説に登場する紅皿の墓というのがあります。太田道灌は、(高田の里(現在の面影橋あたりとされる))鷹狩りに出かけ、その最中に俄か雨にあい、とある山の一軒家の農家に立ち寄って雨宿りをし、蓑を貸して欲しいと頼んだところ、出てきたその家の少女(紅皿)は、庭に咲いていた今を盛りの山吹の一枝を黙って捧げました。その少女(紅皿)のお墓があると言われています。

〜明治時代に四谷四丁目の前身である四谷永住町が誕生しました〜
 明治時代になって、明治4年(1871年)には、新宿御苑(注11をはじめ、その周辺のお屋敷一帯は、全部政府に上納したわけです。それから町を分割しながら、一般庶民に払い下げしていったんですね、それでできたのが、四丁目の前身である永住町なんです。田安稲荷に記載してますが、最初は90人程の人数で、町がぽつぽつできていったんですね。永く住む町ということで永住町という名前を付けたんだと思います。愛して住みたいで、愛住町とか。住みいい町なので、住吉町とか。非常に単純な町民らしいものが付けられました。この時(お屋敷に住んでいて)払い下げ後、住んだ人は一人もいなかったようです。四丁目に約250坪の田安家の御殿がありましたが、それを全部壊して、門だけがお寺さんが残してほしいと、今、幸國寺にあります。門の位置は、昔の常川さんの家があった辺りと言われています。明治5年(1872年)に四谷第一小学校ができました。その時には、義務教育といっても、いくらか月謝を払わなければならなかった。若葉2丁目3丁目あたりの鮫河橋(さめがはし)(注12には生活に厳しい方が多く、学校へ行くお金がないということがあって、当時の笹寺の住職が中心となって、四谷48ヵ寺のお寺があるんですが、毎日三銭ずつ、お金を持ち寄って、子供たちの教育をしようと、一時、三銭学校(注13というのを造ったんです。荒木町も芸者街でしたが、そこに来るお客さんは、近くに陸軍士官学校があったので、軍人の遊び場でした。あそこに行って、会ったらちょっとまずいという人は、四谷大木戸の花街に来てたみたいですね。結構、軍人・学者・大学の先生というのは、いいお客さんだったようです。四谷地域センターの向かい側は昔は大国座(注14という歌舞伎の芝居小屋がありました。三業地(注15で遊ぶ場所としてはいいところだったんでしょうね。芸者街なので、場所としてはちょっとハイクラスでしたし、48件の遊郭もあったのですが、のちには、表通り(新宿通り)にあういう遊郭があってはいかんということで、高松喜六の屋敷跡に移ったのが、今の新宿2丁目の場所で、俗に赤線・青線と呼ばれていたところです。

〜鉛筆の碑・沖田総司の終焉の地もこの町にあります〜
 鉛筆の碑(注16は内藤神社に建ってますね。三菱鉛筆は、三菱商事の子会社と思ってる方が多いかもしれませんが、まったく関係はありません。マークの菱形の三つの意味は、創業者の眞崎仁六が自分のと ころで出している3種類の鉛筆であると。硬いのはH、やわらかいのはB、中間がHBの3本を表しているのが、3つの菱形のマークなんです。家紋も似たようなものですね。眞崎仁六は明治10年(1877年)にパリの万国博覧会で鉛筆を見て、これはすばらしいと、帰国して作るまでに10年かかった。黒鉛は、鹿児島産、混ぜる土は茨城県烏山(からすやま)(土浦市)、それを水車でとんとことんとこやって混ぜていたのが、内藤神社内の児童公園の所ですね。今でも通路の跡のように見えませんか。塀に沿って、大京町の交番下に川が流れていて、橋(池尻橋)があったんです。下が公園になっていますね。あれが第六小学校の前を通り、国立競技場の前を通って、ずっと暗渠になって、顔を出すのが渋谷なんですね。渋谷川が流れていたんですね。池尻橋の橋のたもとあたりが沖田総司の終焉の地(注17といわれています。川のほとりに植木職人の家があって、その納屋に肺結核を患い、寝ていましたが、既に近藤勇らは死んでいましたが、それも知らず、慶応4年5月30日に亡くなったといわれています。

〜四谷と四ツ谷、2つの書き方がありますよね〜
 明治20年(1887年)に、八王子から新宿まで開通し、その後赤坂御所トンネル(注18ができ、四ツ谷 駅・市ヶ谷・飯田橋まで、甲武鉄道(注19がつながったのが明治27年(1894年)です。今いつも四谷中学校の子供たちに話をする時、あなた方の中学校は、四谷中学校ですね。だけど「よつや」という字で、もう一つ違う公共の施設の場所がありますよね。どっちが正しいのでしょうと尋ねると、子供たちは、最初はわからないんですが、そのうち、あっ学校の前の駅名が「四ツ谷駅」で、間に「ツ」が入っていると。それではどっちが正しいのと聞くと、わからない。それは明治27年に四谷に駅舎ができた時に、当時の鉄道省のお役人が駅名をどうしようかと考えた。お役人の偉い人は、みんな50〜60歳代で、江戸時代に生きてきた人、江戸時代の地名には、あいだに「ツ」が入っていた。市ヶ谷も「ヶ」が入っていた。明治以後、統一されて「ツ」も「ヶ」もとって、四谷に なった。従って、どっちも正しいんです。昔、四谷一丁目は、大横町の所まで、麹町十三丁目で、麹町だったので、四谷一丁目はお祭りを2つやるんですよね。須賀神社の祭礼が終わった一週間後に、日枝神社の祭礼がありますね。江戸時代、処刑場は日本橋大伝馬町にありましたが、明治になって、明治5年に市谷台町に市ヶ谷監獄(注20をつくりました。観音八百屋っていう八百屋さんがあります。高橋お伝はそこで処刑されました。当時は、今のように囚人は護送車で監獄に送られるのではなく、市電に乗って送られてきました。囚人は、網笠を被り、褪せた赤い着物を着せられ、後ろ手に手錠をかけられていました。四丁目まで市電で来て、常川さんのお店の横の田安通りを(新宿通りから靖国通りに向かって)通って、坂を下る時に、靖国通りの向こうの坂の上の鉄筋コンクリートの監獄を見て、ぽろり と囚人が涙したと言います。そこから涙坂と言ってたようです。それと私の家の前の通りは、江戸時代 の旧道で、みょうが坂公園の前が茗荷坂ですね。茗荷坂に面して東長寺がありますが、昔その近く(源慶寺の西側)に、(男爵で日本海海戦において戦艦三笠で砲術長をつとめ、のちに浜口内閣・第二次若槻内閣で海軍大臣になった)安保清種(あぼ きよかず)のお屋敷がありました。戦争が終わってから、もう軍人さんはいられなくなって、通りの坂(都営新宿線曙橋駅から靖国通りを西へ向かい、 富久町交差点から西へ上っている坂)が貫通されたので、そこを安保坂(あぼざか)(注21と呼んでいます。安保闘争の安保ではないんですね。新宿通りは、海抜62メートルで、新宿で一番標高が高いんです。靖国通り沿いに川(紅葉川)が流れていて、他にも(田安家屋敷から茗荷谷、饅頭谷、市谷本村町にかけて、上流は桜川、下流は柳川)川が流れていて、川(皮)に囲まれた庵((餡)が素性庵と呼ばれていた)があった為、饅頭谷と呼ばれていました。曙橋ができたのは戦後、東京オリンピックの前にできました。曙橋ができる前は、谷間になっていて谷間を下りてからまた上に上がっていきました。御苑前本通りと外苑西通りの間に長善寺(注22がありますが、最初は神宮外苑絵画館付近にあったんです。明治になって青山練兵場造成の為、立ち退きを命ぜられ、引越してきたんですね。御苑前本通りは、昔は、麹屋横丁と言いまして、どこかに麹屋さんがあったんでしょうね。明治天皇が亡くなった時の葬式場が絵画館のあたりです。昔、神宮外苑のあたりは原っぱで、 何も無かった。千駄ヶ谷(注23は、江戸時代は、「せんだかや」と呼ばれ、馬一頭に背負わせる荷物を一駄といい、千駄は、たくさんの意味、かやは、萱葺きの萱で、神宮外苑は萱が自生しぼうぼうと生えていたところから名付けられたと言います。これは中国の影響なんですかね。中国は、万里はないけど万里の長城、髪の長い人は白髪三千丈といった言葉がありますからね。渋谷区の歴史博物館に行って調べたら、やはり「千駄萱」になっていました。

〜戦後の復興はお祭りとともに〜
 戦後、この四谷四丁目を復興したのは誰かと言えば、それは大木戸会の亡くなった方々のメンバーであり、皆さんのような、青年部時代の頃のことですよ。四谷がこれだけ拓けたというのは、なにしろ戦災で全滅だったんですから、何かと言われれば、それは須賀神社の祭礼がきっかけなんです。昭和21年にお祭りを行いました。その時に、神輿は焼けて無くなっていたのですが、当時いた方々が集まって、費用を持ち寄って、神輿を作ったんです。それを子供たちに担がせたのが、戦後、昭和21年6月のことでした。唯一、本塩町の神輿は焼けずに残っており、神社神輿が焼けて無かったので、本塩町の神輿を神社に一時貸していた。その後、(神社の)新しい神輿ができましたが、戦後の復興はお祭りとともに歩んできました。(以上)

 平成24年10月22日(月)19時30分〜21時00分  於:しいな不動産 地下1階 応接室
 出席者:坂部四谷四丁目町会長、HP委員(小林 根岸 椎名 竹田 宮内)


補足説明

注1:田安家 江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有した。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。宗武は俊英で知られ、国学を学び和歌をよくする好学の家系であったが、嫡子の2代治察が病弱で早世。家に残っていた弟の定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、以降の田安家に宗武の血筋は伝えられず、将軍を出すこともなかった。)


注2:四谷大木戸 元和2年(1616年)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去されている。木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった。文政12年(1829年)成立の「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである。)




注3:高松喜六 ?−1713 江戸時代前期の町人。江戸浅草阿部川町の名主。元禄11年に新しい宿場開設を幕府に願い出て,内藤氏屋敷前に内藤新宿を開き,甲州街道を取締る名主となった。)


注4:御三卿(ごさんきょう)江戸時代中期に分立した徳川氏の一族である。以下の三家を指す。1.田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男) 2.一橋徳川家(一橋家)始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)3. 清水徳川家(清水家)始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男) 徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う。8代将軍徳川吉宗が次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりである。)


注5:大岡雲峰・須賀神社 三十六歌仙繪 (おおおかうんぽう・さんじゅうろっかせんえ) 天保七年に画かれたこの三十六歌仙は戦時中、御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在須賀神社の社宝として残ってる。三十六歌仙繪は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛をみた。画工は四谷南蘋(なんびん)と称された高芙蓉の高弟、大岡雲峰(当時七十三歳)(天保七年)の作、大岡雲峰は旗本で四谷大番町(現大京町)に移住し、公郷に交友多く、当図は衣冠の考証が正確であるといわれている。)


注6:林国雄(はやし・くにお)生年: 宝暦8 (1758)、没年: 文政2.2.27 (1819.3.22)江戸中・後期の国学者。水戸の生まれ。江戸に出て甲府勤番支配八木丹波守に仕え,狂歌を鹿都部真顔に学ぶが,のち和歌の道に入る。四谷苅豆店に居を定めてからは門人多く,講釈を盛んに行った。著作に『詞の緒環』『皇国之言霊』『松葉集』などがある。)


注7:曹洞宗 四谷山長善寺(笹寺) 東京都新宿区四谷4-4 曹洞宗・長善寺は、天正3年(1575)、「甲陽軍艦」の著者として知られる甲斐国(山梨県)武田氏の臣高坂弾正昌信の居所にむすばれた草庵から起こった。開山は文叟憐学和尚で、本尊の釈迦如来石像は元禄3年(1690)7月につくられたものである。四谷の多くの寺院が、寛永11年(1634)以降に麹町から移転してきたものであることを思えば、それらよりもずっと古くこの地に創建されていた長善寺の地域社会的意味はたいへん大きいといえる。当寺は笹寺とも呼ばれているが、この名は、二代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中ここに立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見てつけたものだとも(「江戸名所図会」など)、それは三代将軍徳川家光が江戸巡覧をした時のことだとも(寺伝)いわれる。この寺には「四谷勧進角力始祖」と刻まれた3mほどの石碑がある。これは力士明石志賀之助が寛永元年に境内で6日間の相撲興行をしたのを、江戸の勧進相撲のはじめとして東京大角力協会が建てたものである(異説もある)。墓地には、本居宣長の門人で四谷刈豆店に住んだ林国雄(天保10年2月26日没、62歳)や、子の林甕雄(文久2年9月24日没)、孫の林甕臣(大正11年1月8日没)ら一族の国学者、同じ国学者で一橋家の目付役をした畠山梅軒(天保12年12月4日没、71歳)と孫の畠山如心斎(明治16年6月27日没)、求玄龍砲術の創始者である大草求玄(天保7年12月4日没、60歳)、中国(明)から帰化した医師・北山理庵(明和4年4月27日没、81歳)などの墓がある。(ガイドブック新宿区の文化財より))


注8:江戸孟宗竹(エドモウソウチク)発祥の地 四谷保健センター周辺は、江戸時代、徳川三卿の一つであった田安家の屋敷があった場所で、ここは江戸孟宗竹発祥の地と言われている。明和年間(1764〜71)、この付近に住んでいた植物好きの旗本・永嶋長兵衛が、薩摩から孟宗竹の鉢植えを買ってきて田安邸内に植えたもの、これが江戸に孟宗竹が繁殖した始まりであったという。その後、孟宗竹は江戸の人たちの好みに合ったものか、文化年間(1804〜17)には竹薮が各所で見られ、八百屋の店先でもタケノコが食料として売られるようになった。)


注9:鎌倉街道中道 鎌倉街道中道は等々力、渋谷、千駄ヶ谷を通り新宿、高田馬場方面へ延びていた。千駄ヶ谷から先新宿御苑の園内を通過して戸山公園へと向かい雑司ヶ谷を抜けて滝野川で旧中山道と交差していた。中世の頃、新宿御苑は鎌倉街道中道と旧甲州道の交差地点であり交通の要所であった。1590年(天正18年)北条氏滅亡後に江戸に入府した徳川家康は内藤清成をこの地へ警備の為に駐屯させ、その後清成は此処に屋敷を構え現新宿御苑付近を領有したと云われている。)


注10:西向天神社 〒160-0022 新宿区新宿6-21-1 元は大窪(大久保)天満宮と称し、古くからの東大久保村の鎮守である。西向天神社という名は、地形上、社殿が西方(京都)を向いていたからつけられたものである。また、寛永年間(1630年代)に、三大将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた当社を見て、社殿等の修復のために金の棗(なつめ)の茶入れを下賜して再興を促した、という伝承から「棗(なつめ)天神」とも呼ばれた。大聖院の境内には太田道潅の山吹の里の逸話で知られる紅皿の碑もある。これに因み、西向天神社と大聖院の境あたりに登る坂(というか石段)を山吹坂と称する。また慶安から天和年間には、桜の名所であったことも書物に残されている。)


注11:新宿御苑 新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部である。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされる。明治5年、政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.3haの敷地に、我が国の近代農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」を設置した。新政府の農業振興政策拡充の中で、内藤新宿試験場は、その幅広い役割の一部を他に移し、明治12年、宮内省所管の「新宿植物御苑」として新たなスタートをきった。新宿御苑は明治35年から4年の歳月をかけて明治39年(1906)5月に完成し、明治天皇の御臨席のもとに日露戦争の戦勝祝賀を兼ねた開苑式が催された。


注12:鮫河橋 (さめがはし) 東京都新宿区若葉2〜3丁目と南元町付近の旧称。
汐留川最上流部の谷底に当たり,江戸初期まではこの付近まで潮の干満の影響がみられた。地名の由来は鮫がここまで来たからとも,雨(さめ)が降ると橋が必要になる場所のため,などの説がある。徳川家康の入国前にすでに江戸に住んでいた四谷鮫河橋仲町ほか5ヵ町の名主の記録(〈文政町方書上〉)は,先祖は初め 汐は喰違辺にいたが,江戸城拡張工事のたびに7回も移転を命じられ,鮫河橋に落ち着いたと述べている。)






注13:三銭学校 瑞渓山祥山寺 東京都新宿区四谷2−1 この祥山寺の境内には、明治中期にいわゆると「三銭学校」と言われた学校があって、新宿区の史跡に指定されている。この地に隣接する四谷鮫河橋一帯には、当時、大変貧しい人たちが住んでいて、学齢に達しても就学できない子どもたちがいっぱいいた。こうした状況を見兼ねて、明治21年、四谷塩町長善寺の住職・武村秀学らが特殊学校の設立を思い立ち、四谷区内50余りの住職と協議し、広く浄財を募った。その結果、五百円余りのカネが集まり、それを基金として貧困のために勉強する機会がない子どもたちに読み書きを教える学校を開設した。「各宗共立有信学校」である。校舎は、もと南元町にあった妙行寺に設けた。授業料は無料。教科書、学用品はすべて学校から支給された。有信学校は、祥山寺の小島栄年住職の熱心な指導で教育の実績も挙げたが、開校以来四年足らずで基金をすべて使い尽くし、明治25年6月にやむを得ず廃校に追い込まれた。この学校には、近隣の商店の奉公人たちもたくさん学んでいたため、子どもたちや保護者の失望は大きく、学校の再建を願う嘆願が相次いで出された。そこで小島住職は、同じ考えを持つ人たちと相談し、「三宝社」という有志の社団を設立し、賛同する社員が毎月三銭ずつ拠出する資金を子どもたちの学費に充てることによって学校を再建する計画をたてた。小島住職の献身的な努力によって、約千名の有志が集まり、月額30円の寄付金が確実に集まることになった。そこで明治27年、校名も「有志共立有信尋常小学校」と改め、期待を担って学校は再発足した。俗に言う「三銭学校」である。校舎は祥山寺、教師は小島住職で、教科は読み書きそろばんを主としたもので、月謝や学用品は無料であった。町の人たちの好意で「すいとん」がふるまわれることもあった。三銭学校は明治34年頃まで続けられたというが、廃校の時期は明らかでない。明治33年には第三次小学校令が公布されているが、こうしたことも背景にあるもと推定される。学校教育制度が全く不充分な時代に、貧しい子どもたちのために、住民がカネを出し合って学校を設立し、地域ぐるみで教育に取り組んだ歴史は極めて貴重であり、特に祥山寺と小島住職の献身的な努力は高く評価されなければならない。)


注14:大国座 新宿通りを挟んで四谷地域センターの向かい側に理性寺があった。寺は大正時代の初めに杉並区に移転し、大正6年1月、その跡地に定員1200名、3階建ての大国座という芝居小屋ができた。寺に 大黒堂があった為それをもじったものだった。ここには沢村伝次郎、中村翫右衛門などが出演し、山の手の歌舞伎座として有名であった。しかし、大正7年と大正12年の2度にわたる火災などによって観客が離れ、昭和4年には松竹に身売りした。新宿松竹座となったこの劇場は、パラマウントの封切映画館となり、同時に東京松竹少女歌劇の初公演も行われた。水の江滝子や川路竜子はここで初舞台を踏んだのである。レビュー劇場としてエノケンなども出演した。新宿歌舞伎座、新宿大劇場などと名前を変えて存続したが、昭和20年5月の戦災で惜しくも焼失、その後は遂に再建されることはなかった。)


注15:三業地  料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業している地域の俗称。その営業には公安委員会(第2次大戦までは警察署)の許可が必要であることと,3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していることにより,三業地とよんで特殊地帯であることを表した。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理のため,検番を置くことが多い。三業から待合の抜けた所では二業組合となり,そこを二業地という。花柳街とほぼ同義に用い,20世紀前半における市街地の主要な遊興地帯であった。)


注16:鉛筆の碑  東京都新宿区内藤町1-8 (新宿区立内藤児童遊園) 多武峯(とうのみね)内藤神社 内藤児童遊園内 平成23年(2011年)、三菱鉛筆は創業125年を迎えた。明治20年(1887年)、創業者の眞崎仁六は現在の新宿区内藤町に、水車を動力とした鉛筆工場を建て、鉛筆工業生産を開始した。それが三菱鉛筆株式会社の前身である「眞崎鉛筆製造所」である。創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠(あんきょ)となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていた。平成18年(2006年)10月、創業120年を記念し、創業の地である新宿区内藤町に『鉛筆の碑』を建立し、新宿区に寄贈した。日本国内での鉛筆の飛躍的な普及の礎、そして100年以上にわたって愛されている鉛筆の歴史は、この場所から誕生した。)


注17:沖田総司終焉の地 沖田総司逝去の地は千駄ヶ谷説と今戸(台東区)説と二説ある。その二節とは以下のように伝えられている。1)千駄ヶ谷説 子母澤寛の「新選組始末記」中央公論社版の記事から「新選組の一番隊長を勤めた沖田総司は、新宿御苑の前通りになっている千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋の平五郎と言う納屋に隠れていたが、慶応4年5月30日、年25で、この納屋で死んだ。宿主の平五郎は、本所辺 りの旗本屋敷へ出入りして、多少の扶持米を貰い、裕福な暮らしであった。」2)今戸(台東区)説故永倉新八翁13回忌に配布された翁の「同志連名記」の記事には「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」とされている。横山秀明氏「昔の子供たちの遊び場」から渋谷川は大木戸から新宿御苑沿いを伝わって、内藤神社(多武峯神社)の近くを通って池尻橋に通じる。道(現外苑西通り)を潜って、対岸の深んど(深み)に出て、四谷第六小学校沿い脇を通って、JR中央線を潜り、外苑側に流れる。この渋谷川も現在は埋設されているが、所々にその川跡を確認する事が出来る。この渋谷川沿いの新宿御苑は内藤駿河之守の屋敷であり、生い茂る木々はそのまま当時の状況を残している。四谷第六小学校や隣の慶応病院は当時、軍の弾薬庫などの施設が雑木林の中にあった。池尻橋の上手には水車が何台か掛かって米搗き用に使われていた。)



注18:御所トンネル 明治時代、中央線は、甲武鉄道という民営鉄道が開業した。明治22年(1889)、まず新宿・立川間が開通し、同年中に八王子まで延びた。甲武鉄道としては、なんとか東京の中心部へ向けて路線を延長したかった。最初に新宿・三崎町間の許可を得たのだったが、そのころ日清戦争が始まって、路線変更を求められた。軍事用の輸送ルートとして、新宿から青山練兵場(現在の神宮外苑)までの路線が緊急に必要になった。これだと、その先の市街地に達するには、赤坂御所や学習院

の下にトンネルを掘らなけ ばならない。そんな大それたことができるか、との意見もあったが、軍事優先で、川上操六将軍が皇室の了解を取り付け、新宿ー牛込間の路線が明治26年(1893)許可された。天皇の住居としての皇居は、当初江れ戸城西の丸御殿が使われたが、明治6年(1873)5月、火事で焼けたため、皇居に宮殿が再建される明治21年(1888)まで、赤坂御所を仮御所とした。もともと紀州徳川家の下屋敷のあった場所である。その後はこの場所に東宮御所(皇太子の住居) の建設が計画され、明治32年(1899)着工、同42年(1909)完成した。これが現在の迎賓館である。

四ツ谷駅ホーム(手前)と御所トンネル(中央の機関車の向こうに見える)。二本の線路がトンネルに向かっているのが分かる。さらにその向こうの線路は引き込み線であろう。(新宿歴史博物館編集発行『ステイション新宿』{1993年刊行}から)


そんな時期での、この路線計画であったから、たとえ敷地の一部をかすめるだけとはいえ、御所の下を鉄道が通るということは、問題だったろう。それが戦時の兵員輸送を理由にすんなり通るという時代であった。日清戦争は明治27年(1894)に勃発している。許可が下りるとすぐに新宿ー青山練兵場(多分現在の千駄ヶ谷駅あたりだろう)までの軍用線が完成し、軍隊輸送に役立てられた。新宿からは、南へ品川までの日本鉄道が明治18年(1885)には完成していたのである(この路線は北へは赤羽まで通じていた)。兵員輸送ラッシュが一段落したあと、同じ年(明治27年)の内に新宿ー牛込間で一般営業が始まった。従ってトンネルが掘られたのは、明治26,7年(1893-4)ということになる。古い絵葉書にもこの赤煉瓦のトンネルが見えている。建造後ほぼ120年になるトンネルである。牛込駅は今の市ヶ谷駅と飯田橋駅との間あたりにあった。四谷見附にも駅が作られた。)

注19:甲武鉄道 明治時代に日本に存在していた民間の鉄道事業社である。東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道(動力=蒸気のち一部区間は電気を併用、軌間=1067mm)を保有・運営した。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。元々は、1870年に開業したものの、2年後に廃止された玉川上水の船運の代わりに、その堤防沿いに新宿 - 羽村に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設を企画したことにはじまる。1886年にはこれを東京市内 - 八王子の蒸気鉄道に変更して出願、翌1887年には設立が認められた。以降、1889年4月に新宿 - 立川、8月には 立川 - 八王子を開業した。新宿から東京市内への路線延長は、当初は甲州街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工廠の後押しもあり、1889年5月に申請、7月に仮免状が下付されたもので、1894年10月には新宿 - 牛込が、1895年4月に牛込 - 飯田町が開業している。これは更なる延長が計画され、1890年に飯田町 - 万世橋を出願、1900年には当時計画中の東京縦貫高架鉄道(現在の上野 - 新橋のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、このうち1904年12月に御茶ノ水までの延長が完成した。東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。)


注20:市ヶ谷監獄 小伝馬町より移り1875年(明治8年)に市谷谷町囚獄役所として設立された。位置は現在の市谷台町すべてと、住吉町と富久町の一部からなる。その当時、まだ斬首刑が残っており、このあたりに斬首の処刑場があったといわれている。高橋お伝も明治12年1月この獄所で処刑されたという。1910年(明治43年)に豊多摩郡野方村(現在の中野区)豊多摩監獄に移った。東京監獄は1905年(明治38年)鍛冶橋より移転して現在の富久町に設立され、1922年(大正11年) 市谷刑務所と改称された。 二つは別の施設であるが、ともに市谷刑務所と記載するものもある。現在の靖国通り住吉町交差点から市谷台町へ登る坂は、ここへの入り口であり『刑務所通り』と呼ばれていた。伝馬町牢屋敷に代わって明治時代初期から昭和時代初期まで、現在の拘置所の役割をしていた。当初は未決囚を拘置し、裁判所へここから送致することが主な目的であったが、その後既決囚を収容するに至り、死刑囚の収監と処刑も行っていた。その一部は現在『富久町児童公園』となっており、公園内の刑死者慰霊碑が立っている場所に刑死場があったと言われる。)


注21:安保坂(あぼざか) 所在地 東京都新宿区富久町9と10の間 都営新宿線曙橋駅から靖国通りを西へ向かい、 富久町交差点から西へ上っている坂。坂道にある都の標識には、この道路は、昭和十九年(1944)七月に都道として認定されたもので、坂名がついたのもきわめて新しい。 その時の東京都告示には「牛込区市ケ谷富久町及四谷区四谷四丁目、花園町地内に於て(中略)市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。坂名の安保は、この地に男爵安保清種(あぼ きよかず)海軍大将が住んでいたことに由来する。)       


注22:浄土宗寺院長善寺 浄土宗寺院長善寺は、高月山瑞翁院と号し、浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚が開山、高月栄法比丘尼が開基となり、元和9年(1623)神宮外苑付近に創建したと伝えられます。明治22年に新宿区四谷4‐33‐2に移転しました。)(*長善寺は同じ四谷四丁目に同名の通称「笹寺長善寺」があるが、そことは別)元和9年(1623)の創立で、今の神宮外苑絵画館付近にあったが、青山練兵場造成の為、明治22年当地に移ってきた。開山は浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚、開基は高月栄法比丘尼で、開基は千駄ヶ谷名主太十郎の先祖にあたる人だという。この寺が世に知られたのは、銅造釈迦如来像があったためである。仏体は1mほどの座像で、背に応永14年(1407)8月鋳造の銘文がある。豊臣秀吉が大阪城に安置していたと伝えられ、鉄砲の弾丸跡が八ヶ所ほどあった。これは大坂の陣の名残を示すもので、天和3年(1683)以来当寺に所蔵されていたというが、今はない。(ガイドブック新宿区の文化財より))


注23:千駄ヶ谷 かつてこの地に存在した東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町は、1932年(昭和7年)に東京市に編入され、渋谷町、代々幡町と合併して渋谷区を形成した。維新後、徳川宗家が住し篤姫も居住した。現在の新宿御苑内を水源とした渋谷川上流地区に位置し、たくさんの萱が生えていたこと、それを一日に「千駄(駄は馬に積む荷物の重さの単位)の萱」を積む事から千駄ヶ谷となった。もとは豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷。昭和7年に千駄ヶ谷一丁目から五丁目まで起立。昭和43年千駄ヶ谷二丁目の南半分を神宮前二丁目に分離、原宿三丁目の北半分を千駄ヶ谷三丁目に編入。また千駄ヶ谷大谷戸町を千駄ヶ谷六丁目とし、さらに、代々木山谷町の一部および代々木外輪町の一部を千駄ヶ谷六丁目に編入。)


[編集・構成:宮内HP委員  監修:坂部健・HP委員会]  Copyright(C) 2007 Yotsuya-Yonchoume All Rights Reserved.