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四谷四丁目は、昭和十八年に当時の塩町三丁目と永住町とが合併して成立しました。
塩町の名称の由来は日本橋伝馬町が四谷門外に塩町の地を拝領し、大伝馬町に塩町が
あるため四谷塩町と名づけられました。 大伝馬町の塩町の由来は塩問屋が多くあった
との記録があります。
永住町は江戸時代は過半が田安徳川家の別邸、その外は柳生但馬守の下屋敷、幕府藩士
の宅地と寺院でありました。 明治五年に合併し、永住町と名づけられました。
明治後期に永住町は寺院を除くほかは、新開の市街地であり、居住者も一定していませんでした。
龍昌寺横町より西に入ったところは木賃宿が多く、大木戸近くは商店があり西北の方は邸宅が
多くありました。 (新宿区史史料編による)
昭和二十年八月の終戦時は一面焼け野原で、防空壕とかバラック住まいをして、大空襲のなかを
がんばった人たちだけで四谷四丁目に三百世帯ほどでした。 マッカーサー司令部の命令により
町会隣組組織は廃止され、情報交換、配給物資の配布、防犯、防火、衛生等のため、共栄会という
親睦団体を結成して様々なことに対処していました。
地域自治のための組織が絶対に必要であるということがマッカーサー司令部によって理解され、
ようやく町会の復活が認められたのが昭和二十二年頃でした。 そこで四谷四丁目町会は昭和
二十三年四月に創設されたのでした。 昭和十八年、永住町と塩町三丁目の一部とが合併して
四谷四丁目となっていたのをそのまま受け継いだものです。
当時の規約は大変な労作ではり、町会の目的は民主主義の普及と会員相互の親睦、公共の福祉
の増進とにありました。 その精神は現在も引き継がれています。
地方自治法の改正により、平成四年八月七日、新宿区の認可により地緑団体として法人化
されました。(中島精司)
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